「結局、何もしてやれなかった。私が、あの子を守ってやらなければならなかったのに」
薄闇の中、鏡に映したような、けれどどこか浮世離れした美しさを纏う顔が、白く浮き上がって見えた。
「あの夜以来、あの子の求めるまま、幾度も身体を重ね合ったけれど、あの子の心には、魂には、手が届かなかった。自分の魂すら癒せないのに、私は……」
弟も同然だった幼馴染と、血を分けた実の兄との間に、秘められた関係があったと知って、湧き起こるわだかまりがないといえば嘘になる。けれど、今は、その兄がアナイスに抱いた感情が己のことのように理解できた。
自分は、常に兄のために在ったのに。
「……俺が……俺が宮殿に残っていたら、アナイスはああはならなかったかもしれない。二人に……兄さんに、辛い思いをさせなくて済んだかもしれない。俺が……」
「……ロジェ」
両頬を手のひらで挟まれて、顔を上げる。目の前に、いっぱいの悲しみを湛えながら、優しく微笑む顔がある。
幼い頃、父に叱られてべそをかいている自分を、兄はこうして慰めてくれた。
年長ぶり、兄貴風を吹かせては、自分やアナイスを子供扱いしたものだった。アナイスはともかく自分は同じ歳なのに、と頬を膨らませながらも、自分よりずっと優れた兄を尊敬し、信頼していた。
短くはない時を隔てて忘れかけていた、そんな感情が甦る。
「お前にも、あの子にも……私を裁く権利がある。酷い仕打ちをした、私を……」
「兄さん……」
ロジェは激しく首を振って、頬を挟んでいた手を取った。
痩せこけて骨ばった、冷たい指。
「兄さんはいつもそうだ。自分が、自分がって、何でも背負い込んで……」
「………」
「俺が居るよ。兄さんと居るよ。だから、俺にも分けてくれ。兄さんが背負っているもの。……二人だったら、半分にできるよ」
「ロジェ……」
「……いつだってそうしたかった。いつだって兄さんが一人でなんでもしてしまうから、俺はちっとも役に立てなかった。今なら……」
翡翠の瞳から涙の雫が溢れて、頬に、顎に伝い、握っていた手の上に滴り落ちた。表情に乏しかった顔がくしゃくしゃに崩れ、両の腕が首に巻きついてくる。
「……兄さん……」
「寂しかったよ、寂しかった……会いたかった、ロジェ……お前が居なくなってから、ずっと……」
腕の中で震えている身体を抱きしめる。
こんなに細くて頼りない肩だっただろうか。
黒き鏡を背に、黒き創世の夢を滔々と語っていた彼は、とても大きく見えたのに。
「……鏡を通して、お前を見ていた。外の世界で楽しそうに過ごすお前を羨み、妬んだこともあった。お前が私の許に帰ってきてくれたら、こんな思いはしなくて済むのにと、罵りながら、焦がれながら、心の奥に押し込めたつもりでいた……」
「………」
「お前が幸せに暮らしているなら、それでいいと……けれど、魔女にも、あの子にも見抜かれていたよ。私は、ただの寂しがり屋の子供だった」
ロジェは小さく頷きながら、小刻みに震えている肩をそっと撫でた。
「兄さんが寂しがり屋なのは、俺が一番よく知ってるよ。……俺も、外で暮らしていて、思い出すのは兄さんのことばかりだった。今頃どうしてるだろう、寂しがってるだろうな……って」
「寂しかったよ。ずっと……寂しくてたまらなかった。お前はもう、私を忘れてしまったんだと思って……」
腕がほどけて、指先で顔中を撫で回すその仕草は、まるで盲人が表情を読んでいるかのようだった。濡れた頬を軽く拭ってやると、すぐ目の前で小さく自分の名前を囁いた薄い唇が、己のそれにそっと重ねられて、ロジェは思わず身体を硬くした。
その反応に気づいたのか、唇はすぐに離れたが、思いつめたような瞳はどうやら焦点が合う程度の距離で、長い睫毛に隠れながら震えている。
「……兄、さ――」
呼ぶ声を遮るように、再び唇を塞がれた。背中を預けていた壁に押しつけられる恰好のまま、貪るような口づけを受けていると、胸の奥に引っかかる小さな棘に気づく。
嫌悪感、とはまるで違う。むしろ一番似ているのは嫉妬、少しだけ罪の意識をまぶして。
「……俺は、あいつの代わりじゃないよ。代わりにはなれない」
解放された唇で、言葉を紡いだ。その言葉にこそ棘があると知りながら、試すように。
肩口に埋まった頭が否々と揺れる。
「……違うよ、ロジェ。私にとっては、あの子こそお前の代わりだった」
「兄さん……」
「……だからこそ、あの子を壊してしまった」
「………」
「分かって、いるけれど……私は……お前と居たいよ、ロジェ」
重ねられた唇は、甘く、熱かった。腕の中の身体に少しずつ炎が灯るのが手に取るように分かる。繰り返し襲い来る口づけの隙間からどうやら息を継いで、捨てきれない躊躇いを乗せた言葉を零した。
「……誰か、来たら……」
「……この部屋に、結界を張っておいた」
誰も入ってこられないし、声も聞こえないよ。そう囁いた瞳の輝きが、幼い日、弟たちに悪巧みを提案したときのそれとよく似ているのは、二人でする“悪いコト”への罪悪感の裏返し。ただあの頃と違うのは、纏う倒錯的な美しさ。
「……いつの間に、そんなこと……」
つい笑ってしまって、ロジェは白旗を上げる。かつても、兄の悪巧みを止められたためしはなかった。
傷を舐め合う、弱い二人。どうか日が昇るまで、女神様、目をつぶっていて。
あなたを一度は裏切った人間のための願いなど、道理の通るはずもないと分かっているけれど。
唇は貪られるに任せ、手探りでおずおずと指を這わせた。指先に触れる肌は寒そうに粟立っているのに、僅かずつ熱を帯びてゆく。汗ばんでいるのは自分の指だろうか。
両手を押さえつけられて、不快にさせたかと些か慌てて引っ込めようとすると、飢えたように蠢くのをやめた唇が耳元で、じっとしていて、と熱っぽく囁く。両の膝で腿の上にのしかかられていては、もとより身動きのしようもなかった。身体にだらしなく引っかかった暗色のローブから覗く白い肌が、淡い月明かりを帯びて浮き上がっている様は、まさに幻夢の名の通り――と言えば、彼の心の中に刺さったままの楔を槌で打つことになるのが分かっているから、口にはしない。
幻のような、夢のような、おぼろげな感覚。裏腹に、はっきりと感じる、熱。
「兄さん……ッ」
頬から首筋へ、鎖骨へと、するすると降りてゆく柔らかな感触に、息が跳ね上がった。呼びかけた声がまるで助けを求めているように情けなくて、困り果てた顔のロジェに、優しい微笑みを返すけれど、攻撃の手は緩めない。
否応なく熱を帯びてしまう場所に、ひんやりとした指が滑り込んで、困惑と昂りとが同時に身体を突き上げる。抗議しようとした口を甘い唇に塞がれて、頭の芯が痺れ、衝動の上に居座る理性を溶かしてゆく。こんな手管をどこで覚えたのかと、辛うじて残る思考を走らせれば、辿り着くのは“あの子”の顔だった。兄を傷つけ、振り回して、居なくなって、結局は彼の心に消えない傷を刻んだのだと、筋違いと痛いほど知りながら心の中で罵倒して、罪悪感ごと追い払った。
糸を引く余韻を楽しむ暇もなく、微笑んだ唇が、欲望のかたちに屹立した身体の中心に襲いかかってきて、思案のくびきを容赦なく切り落としてくれる。
「……ッ、あ……ッ」
ぬらぬらと濡れた生温い頬の粘膜と、熱く湿った舌とに締めつけられて、抑え切れなくなった声が零れた。
「にい、さ……待ってッ」
羞恥心や背徳感の縛めに揺れながら弱々しく制止する声にはお構いなしで、指先で愛しげに弄びながら、喉の奥まで咥え込んで恍惚の表情で舐り続けるその姿は、その口から零れる淫猥な水音と重なって、暴力的なまでにロジェの劣情を刺激する。繰り返し与えられる快楽に責め立てられ、もう一度、待ってと懇願しようとしたときには遅かった。
「あぁ……あッ、にい……さ……」
腰ががくがくと震えて、温かな口の中へ欲望の澱を吐き出す。二度、三度とわななくごとに注ぎ込まれるそれを受け止める喉が小さく鳴った。
「……ん……」
残らず飲み込んで、満足げな表情で見上げてくるその口元から、糸を引いて滴り落ちる雫が、身体を衝き動かした。
「! ロジェ、ッ――」
戸惑ったように身体を引こうとするのには構わず、掴んだ腕を乱暴に引き寄せて、唇を重ねた。粘りを増した唾液を貪るうちに、不快な苦味が少しずつ甘さに変わり、背徳は昂りへと、温もりは愛しさへと変わる。覚束ない呼吸に、離れた唇が、心底惜しく思えた。
「……ごめん、兄さん……汚しちゃって」
毛づくろいでもするように髪の毛を撫で回している手を取りながら、目の前で柔らかく微笑んでいる唇を指でそっと拭うと、額に口づけを落とされる。
「……可愛い、ロジェ。私のロジェ」
幼かったあの頃から時が経って体格も一回り大きくなっても子供扱いのままなのか、と不服に思いながらも、情けない姿をつぶさに見られては何も口答えできない複雑な心情を映して、唇を尖らせたり頬を染めたりと忙しなく変わるロジェの表情を愛おしそうに見つめていた瞳が、ふと瞼の下に隠れた。しなだれかかってくる身体を慌てて支えると、耳元で甘い囁き声。
「私の、ロジェ……」
密やかな水音がして、力を取り戻しかけていた身体の中心に強烈な快楽が襲いかかり、油断していた口から悲鳴のような声が漏れて、ロジェは必死で唇を噛みしめた。
少しずつ腰を下げて、ゆっくりとロジェを飲み込むにつれ、青白い頬に赤みが差して、口元がしどけなく緩んでゆく。
「にい……さん……」
「あぁ、あ……ロジェ……」
弓なりに反り返る腰と背を支えながら、いっぱいに伸ばされた白い首筋に食らいつくと、温かな血潮の流れを感じた。その体内は灼けるように熱く、一息ごとにロジェを締めつけ、擦り上げる。油断すれば蕩けてしまいそうになる意識を、絡めた指の感触を手がかりに繋ぎ止めた。
「……こんなにも、安らいだ気持ちになったのは……久しぶりだ。……お前を、感じる……私の……中、に……」
「ああ……俺も、兄さんを……感じるよ」
幻夢の創世なんてしなくても、俺たち、こんなに簡単にひとつになれるのに。
「兄さんの、中……熱くて、溶けてしまいそうだ。指は、こんなに冷たいくせに……」
「ロジェ……」
瞳に涙をいっぱいためて、顔をくしゃくしゃにして笑う。
こんな人間らしい表情を見たのは、いつ以来だっただろう。
「……許されるなら、ずっと、このまま……お前と、こうしていたい。……時間が、止まってしまえばいいのに……」
「兄さん……」
混沌の海に溶けていく彼をただ見ているしかなかったあのときの激しい喪失感が不意に甦ってきて、その身体を強く抱き寄せた。
分かち難き半身。
「……大丈夫、俺はどこにも行かないよ。だから……だから、兄さんも……」
繋がり合った場所から漏れる水音が、耳元で聞こえるすすり泣きにも似た吐息が、身体の奥の熱を煽る。
ずっとこのまま、なんてとても無理だ。
日が昇ったら、きっと“このまま”ではいられないのは、本当は分かっているけれど。
今だけは、目を閉じて、耳を塞いで。目の前のあなただけ。
「……ふ、あ……」
優しく身体を揺すり上げるのに合わせて零れる声が小気味よい。舌先で胸の敏感な突起を弄びながら、腰に引っかかっていたローブを手探りで払いのけ、天を衝いて反り返る欲動を手の中へ握り込んで、既にだらだらと涎を垂らしているその先端を指の腹でそっと擦ると、聞いたこともない声で喘いで、肩と腕に爪が食い込んだ。
「ロジェ……ああ、ロジェ……」
一声呼ぶたびに、貪欲な内壁が凶暴さを増してロジェを責め立てる。腰がゆるやかに上下するだけで意識ごと食い千切られてしまいそうで、胸を突き放そうとしている手に抗うこともできずに、背にしていた壁に身体を預けた。またしても主導権を奪われた情けない自分に腹を立てる余裕などあるはずもなく、薄闇の中で息を弾ませながら妖しく踊る白い肢体に見とれる。その中は底なしの快楽の坩堝、少しずつ速まってゆくそのリズムに、欠片ほど残っていた理性も何もかも持っていかれてしまった。
「兄、さんッ……にいさ……」
「あぁ、はッ、ロジェ……ッ、ロジェ……!」
互いを呼ぶ声が絡み合い、途切れた瞬間、滾る迸りが堰を切る。一瞬遅れて腹の上に散る白濁に、悦びの涙を流す美しい顔に目を奪われながら、猛る熱の奔流をその体内に叩きつけた。
残らず絞り取ろうとでもするかのようにきつく締めつけてきた内壁が不意に弛緩して、汗ばんだ身体が胸に倒れ込んでくる。
「……ロジェ、ロジェ……」
押し殺した声ですすり泣きながら震えている身体を抱きしめてもいいのかどうか分からずに、中途半端に背に添えた手のやり場に困っていると、首に巻きついていた腕が緩んで、頬へ、額へ、唇へと、顔中に口づけを落とされた。
「……足りないよ、ロジェ……もっと、もっとお前が欲しい……もっと……」
「……兄さん……」
綺麗な顔を涙で汚して、傷ついた魂をさらけ出して、どの口でそんなことを言うのだろう。
手のひらで傷を癒すその指先で、新しい傷を作っているように。
ロジェはそっと首を振って、その身体を抱き寄せ、覆い被さるように半ば無理やりひっくり返して、床に横たえた。身体を浮かせようとすると、嫌々と首を振りながら子供のようにしがみついてくる。
「……いやだ、ロジェ……」
息づくように収縮を繰り返すその体内はとても心地よくて、二度も達しておいてなお悦楽を求めたくなる己の身体の浅ましさに覚える薄ら寒さが、罪悪感の背中を押して、愛しさへと変える。紅く染まった目の縁を拭って、唇を重ねると、強張っていた身体がわずかに弛緩した。
「ふ……ッ」
かすかな水音と声がして、繋がりが解けると、腕の中の身体がぐったりと蕩ける。しがみついている腕だけは離れないから、身体を離さないようにしながら剥き出しの白い肌をローブでくるもうとするロジェの耳元で、繰り返しつぶやく声。
「……すまない、ロジェ……すまない……」
「………」
赦す言葉は口にできなくて、ロジェは力なく首を振りながらその身体を抱きしめるしかなかった。
思っていたほど広くなかった世界を巡り、帰ってきたのは、結局あなたのところ。
長い長い沈黙が続いて、ようやく想いを形にした。
「……俺が自分で決めて、歩いてきた道だから。何が起こったとしても、誰かのせいにはできないって思ってる」
「……ロジェ……」
「兄さんも……もう一度立って、歩いていけるだろ?」
「………」
「……ずっと、一緒に居るよ」
だから、歩いていこう。業を背負い、果てのない道。
もう、片手じゃないから。片足じゃないから。

「……一緒に、居るよ」




ここまでお付き合いありがとうございました。
あんまり救いがある内容じゃないですが…orz
アニスの呪縛から解放されていろいろな糸が切れてしまった兄さんは、それはもうぐっだぐだにロジェに依存すればいいと思います。
ロジェはそう簡単には兄さんを全面的に受け入れることはできないだろうけど、少しずつでも歩み寄っていけたらなと。
互いに失った半身同士、絆は強いと思います。
次があればアナイスに救いを…!

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