どれくらいそうしていたのか、石床の冷たさが薄い室内履きを貫いて足を痺れさせたほどだから、随分長い時間だったのだろう。
明日は早いんだからもう寝なきゃ。珍しく優しい言葉を口にしたその表情は、薄闇に隠れて見えなかった。
部屋まで送っていってよ、と甘えた声で耳元に囁かれたときに、ぼんやりと予見めいたものはあったのかもしれない。
諦念にも似たどこか投げやりな気持ちと罪悪感とに押しつぶされて、考えることをやめていたから、閉めた扉に背中を押しつけられても、すぐには反応できなかった。
「……!」
唇を塞がれて呼吸が止まり、目を見開いた。歯が当たったのか、がちんと嫌な音がして、口の中に鉄の味が広がる。我に返って突き放すよりも早く、荷物でも放り投げるように無造作に押しやられ、ベッドに尻餅をついた。
立っていれば頭半分は背の低い相手をあべこべに睨め上げる形になるが、カーテンの隙間から零れる月明かりだけではその表情も判別しがたい。切れた唇を噛みしめて、目の裏から溢れ出そうになる感情を抑えた。
「やっぱり軽くなっちゃってるねぇ。ちゃんと食べなきゃ駄目だよ」
言葉だけは優しい、けれど、ずいと近づいてきたその瞳には、見たこともない色の光が宿っている。
身体ごとのしかかるようにして両脇に手と膝をつかれては後ずさりするほかないが、それも意味のないこと。
「……何のつもりだ」
「いくら引きこもりだからって、それくらい分かるでしょ」
けらけらと笑うその表情は年相応の少年でしかないのに、その奥にある闇は何なのだろうか。
「……男同士で……することではないだろう。……互いに、想いを通じている男女の間ですることだ」
「説教の仕方がいかにも聖職者だねぇ。『聖職』じゃないけどさ」
昨日までの自分なら頬をはたいてふざけるなと怒鳴りつけ、部屋を出ていっただろう。
けれど、縛りつけてしまった。漆黒の茨にも似た、切れることのない鎖で。
「……アナ、イス……」
精一杯の抵抗、声の震えを抑え、諭すように呼ぶが、返ってくるのは氷のように冷え切った、砂のように乾いた微笑。
「君は、僕のものだよ。この宮殿のものでも、この国のものでもない。まして、ロジェなんかのものでもない」
かつての、この部屋の主の名を、吐き捨てるように呼んだ。
「………」
「そうだよね? ずっと、僕と居てくれるでしょ?」
答える代わりに深く深く息を吐いて、目を閉じた。唇から流れ落ちる血の雫を舐め取った温かな舌が歯を割って侵入してくる。口腔を好き勝手に蹂躙されながら、このまま噛み千切ってやった方がこの子のためなのかもしれないとぼんやり考えてみるが、答えが見つかるはずもない。顎を持ち上げられ、呼吸が苦しくて、喉から漏れた声が、自分のものではないようだった。
ゆったりとしたローブは、少年の暴挙を押しとどめる助けにはならない。冷たい空気に晒された肌が粟立った。背中を受け止める上等な毛布の感触と、胸に触れる温かい素肌の感触とに包まれて、今度こそ、考えることをやめた。
「この匂い、辛気臭くて嫌いなんだよね。違うの持ってこさせなきゃ」
首筋に繰り返し口づけながら、アナイスが鼻を鳴らした。法衣に焚き染めてある香が肌に移ったらしい。祭祀に使うのと同じものだ。明日は嫌というほど嗅ぐことになるというのに、この子は分かっているのだろうか。
否、分かっていてわざわざ毒づくのだろう。
彼から少年らしい心を剥ぎ取ってしまったのは、自分なのだ。
だから、彼の復讐を甘んじて受けよう。そう諦念した。
「こんなに痩せちゃって……可哀相に」
脇腹を指でなぞられ、弾みかける息を噛み殺すと、アナイスは心底楽しそうに笑いながら、その指を首筋に添えた。
「ねえ、嫌?」
決まりきったことを聞くのは、こちらのジレンマを楽しむためなのだろうか。
いっそ、そのまま、指に体重をかけて、この首を圧し折って。
「僕とするのは嫌? ロジェとしたかった? それとも、もうしてるのかな?」
「……やめろ。考えたこともない」
願いは叶えられるはずもなく、無慈悲な指はそろそろと肌を伝ってゆく。妙な感覚が身体を貫いて、噛みしめていたはずの唇の端から聞いたこともない声が零れ、慌てて顔をそむけようとするが、無造作に顎を掴んだ指がそれを許さない。
「だよねぇ。人に触られたことなんかないって反応だもん」
不意に顔を伏せたかと思うと、指とは違うぬるりとした生暖かい感触が襲ってきて、全身が跳ねる。
「やッ……あ、ッ」
両の手で必死に毛布にしがみつきながら歯を食いしばり、ささやかな抵抗を試みるのを、アナイスは慈愛深げな瞳で見下ろした。
「君も普通の人間なんだね。……僕だけが知ってる」
上がる体温と速まり続ける鼓動とをどうしたらいいのか分からず、恨めしげに見上げる視線に返すのは、満ち足りているようで、どこか渇いている微笑み。
「そんな顔、できるんだ。今の君の姿を見たら、ロジェはなんて言うだろうね」
「……ッ!」
アナイスは微笑を貼りつけたまま、眉一つ動かさずに、腰の辺りに絡みついたままになっていたローブを引き剥いだ。剥き出しになった片足を抱え上げられて、頭にかあっと血が上り、めくらめっぽうに腕を振り回す。
「嫌だッ、やめろアナイス! やめ……ッ!」
片手で口を塞がれ、紅い瞳に射抜かれると、見えない糸に絡め取られたように身体が竦んだ。目尻から流れ出した温かいものが、冷え切った頬を伝ってゆく。あまりの恥辱に、今度は自分の舌を噛み千切ってしまいたいと願いながらも、何もできなかった。
「情けない声出して……まだ覚悟決まらないの? ロジェの名前出すとすぐこれだ」
「………」
「忘れちゃいなよ。君を置き去りにして、寂しい思いをさせて、今頃は外で楽しくやってる奴のことなんか。その方がずっと楽だよ。どうせ、もう会うこともないんだからさ。あいつだってきっと、君のことは忘れるよ。すぐにね」
これだけ罵りの言葉を並べながら、この子はロジェを罵っているのではないのだ。
宮殿に残ったのがロジェだったら、彼はロジェに執着しただろう。名前だけ挿げ替えて、同じ罵りを吐き捨てただろう。
二人で一人。どちらでも同じこと。
口を塞いでいた手をそっと外し、鎖骨の辺りに口づけを落とす。
「君は僕の籠の鳥。僕のものだ。これからずっとね」
指を揃えてぺろりと舐める、どこか蠱惑的な仕草を、狭くなった視界でぼんやりと眺めていた。足を更に押し広げられ、奥深く隠している場所に、鈍い痛みが襲いかかる。
「うあッ、あ……!」
反射的に身をよじって逃げ出そうとするが、涼しい顔のアナイスに足をがっちりと抱え込まれている。体格からしてずっと幼い少年に易々となすがままにされている自分に、諦めて手放したはずのプライドがまだ残っていることを思い知らされて、呻いた。
「痛ッ……アナイス、や……」
「きついなぁ……やっぱり、ちょっと慣らしてあげないと駄目かぁ」
間延びした口調でいささか不満そうにつぶやいたアナイスの顔が、不意に視界から消えた。
「ふ、あぁッ!」
柔らかな髪の毛に内腿をくすぐられる感触に続いて這い上ってきた快楽に、情けない声が漏れ、羞恥心に耐えかねて両手で口を押さえる。聞こえてくる粘ついた水音から耳を塞ぎたくても、それでは口を塞げない。人間の手はなぜ二本しかないのだと頭の中で呪詛の言葉を吐きながら、丸まった毛布に顔を突っ込んだ。
「我慢しなくてもいいんだよ。ちゃんと人払いしてあるから。それとも、誰かに聞かれてた方が興奮する?」
「ふ……ざ、け……んんッ」
「聞いてあげるからさ、ちゃんと聞かせてよ。気持ちいいんでしょ?」
子供が飴を舐めるように、口内に含んで舐りながら舌足らずに続けて、アナイスは顔を上げる。口角から糸を引く唾液混じりの雫を、指先で絡めるようにすくい上げて、満足そうに微笑んだ。
「ほら、こんなになってる。霞で出来てそうな主教様も、下々と同じようにセックスできるんだね」
唇を噛んで屈辱に耐えながらも、心臓は血液を逆流させんばかりに高鳴り、身体は初めて与えられる悦びにひくひくと疼いていた。なんて汚らわしい、自分の身体。頬をとめどなく伝い落ちる涙は、憤怒なのか、悔恨なのか、悲哀なのか、もはや分からなかった。
先程と比べればずっと軽い痛みとともに、指先が無造作に侵入してくる感触。唇から漏れる声が嬌声に変わっているのを、少年は聞き逃さない。
「随分ほぐれたみたいだね。もう大丈夫かな」
その声は、とても優しかった。
糸の切れた操り人形のように芯の抜けてしまった身体は、小さな手のなすがまま、転がされ、腹ばいにさせられる。腰を持ち上げられて、ベッドに顔が押しつけられた格好になると、懐かしい残り香をかすかに感じた気がした。少しだけ力の戻った指先で、毛布をしっかりと握りしめた。
「……おまえ、は……」
「ん?」
「……お前は……本当に、こんなことがしたいのか……?」
乱れた髪の隙間から肩越しに見上げた顔は、相変わらず貼りつけたような微笑みのままだった。
生意気でも、皮肉っぽくてもいい、素直な表情を見せてほしいのに。
「そうだよ。身体に刻んであげる、君は僕のものだって」
次の瞬間、熱した杭を打ち込まれたような激痛に貫かれ、悲鳴とも呻きともつかない声が喉を裂いた。苦痛から逃げ出そうともがいても、手はシーツの海を虚しく掻くばかり。血が滲むほどに爪を立てた毛布の優しい感触を手掛かりに意識を保ちながら、懇願した。
「もう、ッ……やめ……アナ、イス……」
「力……抜かないと、痛いだけだよ? 僕の言うこと、聞けるよね?」
「ッ、う……あぁ……ッ!」
呼吸に合わせて更に深く、深く、侵される。腰をしっかりと掴んでいた手がするりと下りてきて、あまりの痛みに萎えてしまっていたものを優しく揺すると、苦痛の奥に甘い痺れが広がって、濡れた声が零れた。
「あ、ッア……ナ、イス……」
「もっと……呼んでよ。ちゃんと呼んで。いっぱい呼んで。そうやっ……て、僕だけを……」
「ア、ナ……あぁ、あ……あぁッ……!」
最奥を叩かれて、視界が真っ白に弾け飛んだ。背を弓なりに反らし、嬌声に喉を震わせ、歓喜と悲哀の混じった涙を流すその身体は既に自分のものではないような、ただ、突き上げ穿つ楔だけははっきりと、その拍動の一つ一つまで数えられる。奥深くを責め苛む痛みが愛おしくさえあった。一人にはなれない二人の空虚を、その魂に刻まれた傷を、埋めてくれるその痛みが。
「……きみ……が――」
背中にしなだれかかるアナイスの口から零れたつぶやきは、スプリングの軋みに吸い込まれる。滾る熱を身体の奥に叩きつけられ、大きくひとつ、ふたつ、わななくと、全身の力が抜けて、ベッドに崩れ落ちた。
温かなものが内腿を伝い落ちるのをおぼろげに感じる。ぼろきれのように這いつくばったまま、指先一つ動かせずに、荒らぐ息を整えていると、ベッドが大きく軋んで、アナイスが目の前にごろりと身体を投げ出した。
穏やかな表情はまるで何事もなかったかのようだ。彼が無防備に素肌を晒したままでなかったら、一切が夢だったと思う他なかったかもしれなかった気がして、どこか安堵するのだった。
無造作に指を伸ばしてこちらの目元を拭う仕草は、優しい。
「さっきから泣いてばっかりだよ。涙、なくなっちゃわない?」
お前のせいだろう、と責める気持ちは起こらなかった。
思えば、父を亡くしたときも、宮殿を去る弟の背を見送ったときも、とても悲しかったけれど、涙は流れなかった。
その分の涙を今流しているような、そんな気がした。
「アナイス……」
「もっと呼んで。いっぱい、呼んで」
「……アナイス……」
「もっとだよ。やめないでよ」
「………」
鉛よりも重い腕を上げると、犬にでもするようにくしゃくしゃと髪の毛を撫で回している手をそっと取って、握りしめた。
「……お前は、私を呼んではくれないのだな」
「………」
紅い瞳は一瞬だけちらりと揺れて、瞼に隠れた。
「君にはもう、名前はないでしょ。自分で言ったこと忘れたの?」
「………」
「君が“主教様”じゃなくなったら、呼んであげるよ。でも、そんな日が来ないことは、君が一番よく知っているんじゃないの?」
握り返してくるアナイスの手は、少年らしく、小さくて柔らかいのに、仄かに冷たかった。
「一人で逃げることは許さない。君は僕の籠の鳥。ずっと、この宮殿で、幻と夢を司る存在として、“幻夢の主教”として在り続ければいい。僕のためだけに。僕の言うことだけを聞いていればいい。できるよね?」
「……お前の……望むようにしよう。ずっとお前と居るよ、お前の傍に。アナイス……国王、陛下」
「そう、それでいいんだよ」
柔らかく微笑むその表情が、かつて見せてくれた素直な笑顔だったのかどうか、霞んだ視界では判別は付かなかったが、そうであってほしいと願った。
投げ出した腕をくぐり抜けるようにして胸元へもぐり込んでくる痩せた身体を抱きしめる。
「“主教様”じゃない君のこと、僕だけが知ってる。僕だけが覚えておいてあげるから」
「……ああ」
「だから、君は、僕だけを見ていて。僕だけを守って」
「……ああ……」
己の魂がどれほど引き裂かれようとも、この子の魂がこれ以上傷つかないように。
業の炎に灼かれ、血の河を渡る道を選ぶというのなら、その道を、共に。
「分かっているよ。私は……お前の、籠の鳥だ」




アナイスは兄弟としての愛情が行き過ぎて同一化願望まで来てしまった感じです。兄さんとは共依存的に寄りかかりあってほしい。


以下、さらに続きというか、ここまでの内容を踏まえたロジェ×兄さん。
エンディング後にどこぞで再会できた前提でお読みください。
性描写あり。精神的には完全に兄さん×ロジェ。
苦手な方は閲覧をお避けください。
平気な方は>>こちら。